北海道岩見沢市の「atrier 花*杢」 太鼓の製作・演奏/造形制作/身近な自然と生活について /空と倉庫という猫ブログもやっています。
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昨年の忘年会の話の中で、なんで神宮に太鼓の祈祷に行ったのか?という話になった。
その時は、「太鼓の第一号ができたので、記念として祈念を・・。」(駄洒落か!)
と歯切れの悪い言葉しかでてこなかったが、どうも気持ちがストンと落ちないままだった。
その日の夜にネットを見ていると、
「日々太鼓日和」の長谷川さんが、自分の想いと繋がる話を書いていた。
北海道神宮神前にて(撮影:花)
以下、長谷川さんのブログより拝借。
太鼓の原点は理屈を超えて身体に響くその力
理を超えたその力は
古今東西、
神々との
あるいは精霊
あるいは人の五感の捉えるうちの理を超えた存在との
交信に用いられた。
そんな存在との交信をする人々を
“巫”と表す。
“工”と“人人”からなる“巫”。
“工”は神に伺いをたてる際に用いられる「祭器」
“人人”は「祭器」である“工”に添えられた左右の手を表す。
祭器を左右の手で操り神に伺いをたてるの意。
…と、ここまでは白川静の大著『字通』による。
“工”に関しては祭器、神器、呪具であるとしか書かれていないけど…
ここから先は俺の想像ね。
上の横線を天
下の横線を地
天と地のつながりを縦の線に
抽象して表したのが
“工”であり、
そこに左右の手“人人”
人為を加え
神が舞い降り立ち昇る
天と地のつながりを明らかにする、
が
“巫”という字の持つ意味なんじゃないかと。
天と地のつながりを明らかにする人々
“巫”。
そんなことをね、フと。
どうでもいいことのようだけど、
太鼓ってなんなの?って考え出すと、
どうしてもそこに辿り着いてしまう。
同じようにヒトを考える時、
神々や精霊を無いモノとして考えるか
それを在る前提として捉えようとするか
前提の違いで世界の見え方は大きく変わる
結構大事なことだと。
こんな時代だけど
こんな時代だからこそなのか
もしくは時代とは無関係に
見えない力に焦がれ
見えない力を降ろしたい
天と地を繋ぐ一筋を
明らかにしたい
この手に…
そんな“巫”の血を宿した人々が
この世には少なからずいるのです。
後略(以上、拝借文)
願わくば、
天と地を繋ぐほどの力をもった音を、
叩いたその場所の磁場を変容させるくらいの力をもった音を
ゼロから自分で作った太鼓をもってして、そんな音を響かせたい。
その想いを持って、今年も太鼓を作ろうと思う。
今年は、この太鼓をもって、演奏の旅に出る予定。
自分の気になる場所に行って、その場の空気を感じながら、
場と一体となった音を求めていこうと思うのです。
(北海道神宮にて撮影:花)
1月も中頃に入った。仕事柄、この時期はややゆとりがある。今まで進められなかった、ジャンベ制作第2弾をスタートするには良い機会と、設計を始めた。
今回のジャンベが、自分の中では本命である。テーマは、「旅するジャンベ」
ジャンベは、どうしても重くかさばるため、移動が楽ではない。しかし、今自分が
目指すのは、日本国内様々な場所(いずれは、海外も!?)へ趣き、その場から受けた
インスピレーションを音にしてゆく事であり、軽く、小さなジャンベが必要なのだ。
しかし、サイズダウンは音域のダウンに繋がる。これは、いつくかのタイプを試してみて間違いがない。ジャストサイズで、かつ移動に不都合のないジャンベを作らなければならない。
(そうなると、ジャンベにこだわる理由はあるのか。となるが、ジャンベからスタートしたのだ。やはり、こだわらなければなるまい。)
そこで、考えたのが「旅するジャンベ」。本体下方のスカート部分が可変するジャンベである。
使用の際は、通常のジャンベ同様で、移動の際はそのスカートを中に収納する。これは、一木彫りでは作れないが、今やっているベニヤの積層作り方なら出来る。そして、きっとこれは、他に類を見ないはず。
今回は、ロープチューンではなく、金具を使う。先日、その金具制作の打ち合わせに江別市にある金属工房ガルフの西山さんと打ち合わせをした。西山さんには、学生時代お世話になりっぱなしだったけど、久しぶりにあえて嬉しかった。西山さん、よろしくお願いします。
ということで、自分の中ではもう見えている「旅するジャンベ」だが、時間の都合上、その形が具現化するのは雪解けの頃かと思っている。これが出来れば、『旅するジャンベを持ってジャンベ演奏の旅」がスタートする。
太鼓製作のアイデアを求めて、webの写真で「太鼓」と画像検索をして見つけたこの写真。
webのもとをたどっていくと、浦西孝浩さんのブログにたどり着きました。
ブログにはこう書かれています。
「(息子さんの)慶一が養護学校高等部の頃、1997年に北見市福山地区で、一本の柏ナラの大木を切り出し、野山を駆ける鹿の皮を使って13個の太鼓をつくりました。」
この写真は、慶一さんとの思い出を孝浩さんが書かれている記事のもので、それをたまたま私が見つけたということが分かりました。
この太鼓は、アフリカンドラム奏者の砂川正和さんと、イラストレーターの沢田としきさんと一緒に作られたということでした。私はこのお二人の事を始めて知ったので調べてみると、お二人もまた、慶一さんより先に空へ旅立たれていました。
浦西さんのブログの中の一文に、砂川さんの言葉があります。「ジャンベ」の語源についての記述です。私はその文に胸を打たれます。
ーーー以下、浦西孝浩さんのブログより抜粋ーーー
先ほど紹介した慶一も参加した太鼓づくりの時のお話ですがその指導をいただいたアフリカンドラム奏者として、当時は日本の第一人者として活躍していた今は亡き砂川正和さんは、西アフリカに伝わる太鼓、一般的に「ジンベ」と呼ばれる太鼓の語源について教えてくれました。
本来の名前は「ジェベバラ」と言い、その語源はモノとしての固有名詞ではなく「調和」を意味するそうです。太鼓を中心に集いコミュニケーションを図る人の輪。人と人との関わりを語る時、自分と同じ人は存在しない。能力や考え方の違いもあれば、同じことをやっていても人それぞれ感じ方は違います。障がいも含め、人それぞれの個性を、ひとつの命として認め合い、助け合う中で、今、生きる「場」は調和して形づくられている。同じことをする人や同じことをできる人ばかりが集まっても地域社会は成り立たないんだよ。・・・・そんなお話を太鼓づくりの最中に砂川さんは教えてくれました。
(以上 浦西さんのブログより)
写真のブログ掲載使用をお願いするため、浦西さんに連絡をとりました。写真使用の快諾をいただくとともに、2枚の写真が送られて来ました。
1枚目は、イラストレーターの沢田としきさんの描いた絵でしょうか。
沢田としきさんという方は、「アフリカの音」という絵本を描かれていて、ご自身でも太鼓を演奏されていたようです。ファンの方の追悼の言葉が多く、惜しまれつつも亡くなられたということがよくわかります。
浦西さんから送られて来たイラストも、動物も、植物も、人間も一緒になって太鼓のリズムで踊っている、ユーモラスでワクワクするような情景が描かれていました。
そして2枚目はこの写真。私がwebで見つけたものと同じ太鼓たちの写真です。ご自宅に飾っているものなのでしょう。そして、このようなお話を頂きました。
不思議なご縁で繋がりをいただいた、今回の浦西さんとの出会い。
そして、慶一さん、砂川さん、沢田さんとの出会い。
この現世でお会いする事は叶いませんが、「いつか、眠っている太鼓を呼び覚ましてくれ。」
そんなメッセージを託されたのかもしれません。
もし、可能であれば眠っている太鼓たちに、もう一度命を吹き込んでみたい。あげたい。
そんな想いを、ひそかにかみしめた出来事でした。
今年10月に開催される、恩師“丸山隆”の作家、教育者としての足跡をたどる「丸山隆と教え子」展のため、久しぶりに先生のアトリエを訪れ、作品の状態チェックを行った。先生の生前に作業のお手伝いで何度も通い、「いつかはこんなアトリエを。」と考えていた事が思い出される。
2人の“レジェンド”から受け継いだ品々を前に、今年もご縁を頂いた方々との繋がりを大切にしながら、太鼓作りに邁進していきたいと思う。
※画像は小学館 BLUE GIANT より拝借